社労士ウリボー 幼少期から小学校時代まで①

幼少期から小学校時代①

皆様こんにちは、中小事業者の味方社労士ウリボーです。今日は子供の時のこと、幼少期から小学生までのことを書かせていただきます。

私は子供の時すごく貧乏でした。親父は大手運送会社の大型トラックの運転手で稼ぎが少ないというわけではなかったと思います。しかし、親父はギャンブルや飲酒などによる無駄遣いなど金使いが荒いために貧乏でした。

手の付けられないギャンブル好きで大酒飲みで家では気に入らないことがあると暴れ、家族に暴力をふるい、自分より弱い嫁(私の母)や子供にはすぐ暴力をふるいました。典型的な弱い者には強いダメな奴でした。外では下着のランニング姿で繁華街で飲み歩いたり、些細なことでケンカしたりどうしようもなく情けない男でした。友達と歩いているとき親父と遭遇するのはすごく恥ずかしかったのを覚えています。

働いたお金をちゃんと子供が3人いる家にちゃんと入れてくれればよかったのですが、入れたり入れなかったり半分くらいしか渡さなかったり、まともに入れない月の方が多かったようです。本当にひどい男という言葉以外思いつきません。

私たち家族は運送会社の5階建ての社宅に5人で住んでいました。父母、姉、兄そして私。まわりは住宅街で普通の一軒家ばっかりだったから小学校の友達には、いつもとても恥ずかしく思っていました。小学生でもバカにする同級生がいました。つつましい生活をして、お金を貯めれば家が買えたのかもしれないけど父は酒とパチンコと競馬にのめり込んでいたし、自制が効かない大酒飲みで、もちろんそんなお金はあるわけはありませんでした。

せめて母がまともだったらよかったのですが、この人もあまりまともではありませんでした。もしかしたら頭のおかしい父と一緒にいて母もだんだん頭がおかしくなったのかもしれません。私が幼稚園の時、フルタイムで働きに出たが、パチンコが好きで毎日仕事が終わってからパチンコに行っていた。大半が負けてお金を減らしていた。働きに行っている意味のない人だった。

父と母は時々2人で繁華街で一緒に飲みに行ったりパチンコに行くようになりました。親父は長距離貨物トラック運転手なので基本的に自宅のある神戸に帰ってくるのは3日に1回で、その3日に1回の神戸に帰ってきた日に、父は母の会社に電話して夜遅くまで遊び歩いたり、3人の子供を家に残して帰ってこないこともありました。電話1本「ご飯を何か買ってきて食べておいて」とだけ言って。

小さい子供時代、小学生なりにすごくみじめな思いをしてました。何がみじめかというと軽くみられるということでした。教師はいい家庭に生まれた子供と比べ、そうでない家庭に生まれた子供を軽くみる。小学校低学年の時に、そういうことがすでにわかりました。私を見る目と裕福な子を見る目が違うことがわかりました。裕福な子に比べ、そうでない子には、きつく怒ったり。時には手をあげたり。あまりいい教師にも出会いませんでしたが。おそらく私自身もがさつで、育ちの悪さがあったでしょう。スクールカーストも必然かどうかわかりませんが低かった。

まとめ

幼少期の私はこんなんでした。しかし、すべて私は肯定しているのです。神様ありがとうございます。色々な意味で。父や母に感謝の気持ちは中々持つことはできませんが肯定はしているのです。みじめな思いは体験しないとわかりません。私はいつも弱き者の立場に立って仕事をしています。なんでも経験ですね。知っているからわかることがあるんです。

負の連鎖にも負けずここまで来ました。これからも時々幼少期からのことなどを書きたいと思います。お読みいただきありがとうございました。そしてこれからも中小事業者の立場に立ち頑張ってまいります。

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